浩史の「あだ名禁止」発言を聞いた瞬間、由奈の顔は一気に真っ赤になった。普段はこっそり心の中で呼んでいたのに、前にうっかり本人の前で口にしてしまい、その場でバレてしまったのだ。思い出すだけで、髪の毛の根元までゾワッとするほど恥ずかしい。この数日間、浩史が何も言わなかったのは、きっと緊急事態だから黙っていてくれただけだろう。改めて言及されると、由奈は居心地悪そうに頭をかきむしりながら答えた。「......わかった。気をつける......」浩史は冷静に補足した。「他のあだ名も、全部禁止だぞ」「わかった!」そう言い終えると同時に、車は静かに発進した。由奈は少し息を吐き、胸の奥の緊張をひとまず落ち着けた。その頃、弥生は子供二人の手をしっかり握りながら、旅館を出た後もひたすら前へと歩き続けていた。追手に見つからないようにするには、人混みの中に紛れ込むしかない。まだ夜にはなっていなかったのがせめてもの救いだ。街は行き交う人々で溢れ、追っ手がいてもすぐには特定できないはずだった。弥生の表情は緊張していた。もう安宿に泊まるのは不可能だ。高級ホテルだけでなく、こんな雑多な安宿まで弘次の捜索網に引っかかるのは、考えてみれば当然だ。自分が持ち出した現金は少なく、スマホもなければ頼れるものもない。全てが友作の残してくれた僅かな現金頼みだ。そしてさっきの電話......由奈はちゃんと気づいてくれただろうか?見知らぬ固定電話からだったから、もし無視されていたら?フロントの人が途中で受話器を戻していたら......考えれば考えるほど、不安が心を締め付けた。「ママ、これからどこに行くの?」陽平の小さな問いに、弥生は返事に詰まった。行くあてなど、今の自分にはなかった。旅館にも泊まれず、子供を抱えて野宿などできるはずがない。頭を抱えそうになったそのとき、ふと目に入ったのは大きなスーパーだった。24時間営業と看板に書かれている。弥生は決断し、子供たちの手を引いて店内へ入った。広い店内は明るく、エアコンが効いている。その奥に「ゲームコーナー」の看板が見えた。弥生は子供たちに微笑んで言った。「......上にゲームコーナーがあるわ。一緒に遊びに行こうか」いまは安全な場所に
電話が鳴り出してわずか一秒後、すぐに冷たい男の声が耳に飛び込んできた。「もしもし」由奈は一瞬、状況が飲み込めずに固まってしまった。「由奈?」沈黙する彼女に向こうが不思議そうに呼びかけた。それでようやく我に返った由奈は、さっきのことを一気に説明し、旅館の住所も伝えた。「絶対に弥生だと思う! もし違っても、こんなチャンス逃すわけにはいかない。どう思う?」「うん......すぐ向かう」電話口から、瑛介が運転手に指示を出す声が聞こえた。すべてを指示し終えてから、改めて由奈に言った。「その番号を僕の携帯にも送ってくれ」「はい!」通話を切った由奈は、すぐにその固定電話番号をメッセージで瑛介に送信した。ちょうどその時、浩史が近づいてきた。「話はついたか?」由奈は唇をぎゅっと噛んで、力強く頷いた。浩史は彼女を一瞥すると、近くにいたスタッフに尋ねた。「車、出せるか?」スタッフは一瞬戸惑ったが、すぐに頷いた。「ございます。社長のお客様ですから、お使いください」二人のやり取りを横で聞いていた由奈は、浩史を見上げて小声で訊いた。「......車で 行くの?」浩史はふと視線を落とし、彼女を見た。「どうした、行きたくないのか?」「......行きたい!」由奈はようやく理解した。浩史は自分を連れて弥生を探しに行くつもりだと。これまで我慢していた胸の奥の焦燥が一気にほどけ、胸が熱くなった。だが一方で、余計な足手まといにはなりたくなかった。だからこそ自分から言い出せなかったのに、浩史が自然に手を引いてくれたことが嬉しかった。鍵を受け取った浩史に連れられて車へ向かう途中、由奈は思わず彼の背中の裾を小さく引っ張った。「......社長、ありがとう」浩史は足を止め、視線を落とすと、白く小さな手を見て、わずかに口元を緩めた。「僕に感謝したのか? 口だけじゃ足りないな」「......え?」由奈は思わず手を引っ込めた。「......じゃあ、何かお返し?」「当然だろう」浩史はちらりと横目で彼女を見た。「口先だけの礼なんて意味がない」由奈は数秒考え込んだ末に、提案した。「......じゃあ、戻ったら、ご飯ご馳走します!」「それだけ?」何を要求され
由奈はちょうど食事をしているところだったが、テーブルの上のスマホが突然鳴り出した。特に気にも留めず、発信者を確認することなくそのまま通話ボタンを押した。「もしもし?」「ツー、ツー、ツー――」だが、思いもよらず相手はすぐに切れてしまった。由奈は眉をひそめてスマホを離し、画面を見た。表示されていたのは見覚えのない市内の固定電話番号だった。「間違い電話か?」小さくつぶやいた声を、向かいにいた浩史が聞きつけ、顔を上げた。「どうした?」「知らない番号からかかってきたの。でも取ったらすぐ切れちゃって......」由奈が説明すると、浩史の目が一瞬鋭くなった。「......固定電話?」浩史は身を乗り出し、由奈のスマホを手に取って確認した。「......地元の番号だ」由奈の表情にさらに戸惑いが広がった。「地元の固定電話が、どうして私に?」言いかけて、由奈ははっとして浩史と目が合った。その意味に気づいた二人は同時に黙り込んだ。二秒後、浩史はすぐにその番号に折り返しをかけた。由奈は固唾をのんで見守るしかなかった。コールの後、電話口から女性の声が聞こえてきた。現地の言葉で話しているのがわかる。浩史はすぐに英語に切り替え、冷静に問いかけた。「先ほどお電話いただきましたが」由奈は声が小さくて聞き取れず、浩史の表情を読み取るしかなかった。「すみません、うちからはかけてません。さっき宿泊していたお客さんが突然公衆電話でかけて......」「お客様?」「はい、ちょっと変わった方で、番号を押してすぐ出ていかれました。まさかつながってたなんて......」「その人は今どこですか?」「ええと......すみません、わかりません。すぐ出て行ったので......でもうちに泊まっているので、夜には戻ると思います」「ありがとうございます。宿の住所を教えてください」電話を切った浩史の顔を、由奈はすぐ覗き込んだ。「どう!?」浩史は短く息を整え、低い声で言った。「間違いなく弥生だろう。あれだけ正確に君の番号を知ってる人間は他にいない。多分、時間がなくて途中で切ったんだ......急いで痕跡だけ残したんだ」由奈の目が見開かれ、すぐに立ち上がった。「やっぱり弥生だ!絶対に何かあ
二人は少し雑談をした後、女将は「用事がある」と言って部屋を出て行った。去り際、「夜寝るときは必ずドアに鍵をかけておくこと。もし誰かがドアを叩いても、無視しなさい」と念を押された。弥生は素直に頷き、ふと気がついて呼び止めた。「すみません......ここに来るとき、持ち物を全部盗られてしまって......携帯も無いんです。もしよかったら、電話をお借りできますか?」女将は一瞬驚いたようだったが、すぐに笑顔で頷いた。「もちろんだよ。下に公衆電話があるから、食べ終わったらおいで」公衆電話......弥生は感謝の気持ちを込めて言った。「では、後で伺います」そしてドアを閉めると、食べ物を陽平とひなのに分けて渡した。「ほら、少しだけ我慢してね。無事に帰れたら、ママが美味しいご馳走を作ってあげるから」「ありがとう、ママ!」二人はチーズを嬉しそうに頬張った。弥生は電話をかけることが頭を離れなかったが、子供たちを部屋に残して一人で行くのは不安だった。もし自分が電話をかけに行っている間に誰かが部屋に入っていたと思うだけで、背筋が寒くなる。結局、二人が食べ終わってから一緒に行くことにした。もし何かが起きても、せめて自分のそばにいれば......旅館の女将が作った食事は思った以上に美味しく、子供たちはあっという間に食べ終えた。弥生も、気持ちを落ち着けるために少しだけ口にした。「ママ、食べ終わったよ!」「よし......行こうか。電話をかけに行くよ」二分後。弥生は二人の小さな手をしっかりと握り、部屋を出た。公衆電話はフロント近くにあるはずだ。階段を降りながら、弥生はきつく二人を引き寄せて言い聞かせた。「ここは日本じゃないから、外の人も環境も違うの。絶対にママから離れないで、わかった?」「わかったよ、ママ」子供たちは素直に頷き、弥生と一緒にロビーへ向かった。遠目に女将がフロントでスタッフと笑顔で話しているのが見え、そのすぐそばに公衆電話があった。弥生は子供たちを連れて電話へ向かおうとしたが、そのとき、入口から数人のアジア系の大柄な男たちが一斉に入ってきたのが目に入った。直感が危険を告げた。弥生はすぐに子供たちの手を引き、近くの隅に身を潜めた。男たちはフロントへ直行し、女将
その男は弘次が何も答えないのを見て、なおも食い下がった。これは絶好のチャンスだ。友作の座を狙う者は、昔から後を絶たなかった。だが、友作は常に完璧で、ほころびを見せることがなかった。だからこそ、今回の失態は絶好の機会だった。この機を逃さずに一気に叩き潰すべきだ。「......とにかく、先に人を探す」と弘次それだけを返した。男は諦めきれずに食い下がった。「ですが、友作の件は......」「君の目には、友作しか映っていないのか?」弘次の声は低く、言葉の調子が一気に冷え切った。同時に全身から殺気が滲み出た。男はびくりと肩を震わせ、慌てて頭を下げた。「......失礼しました!まず霧島さんを探します!」男が部屋を出て行くと、弘次は苛立たしげにポケットからタバコを取り出し、一本をくわえて火をつけた。普段なら絶対に吸わないものだ。どうにもこのところ、苛立ちが収まらなかった。弥生はどうしても自分のそばにいたくないのか?瑛介より自分のどこが劣っている?自分の世界には、弥生以外の女は一切いない。五年もかけて、やっと心を溶かせたと思っていたのに......タバコの煙を荒々しく吸い込み、肺の奥に流し込んだ瞬間、むせ込んで咳が漏れた。「ゴホッ......」外に控えていた部下が慌てて入ってきた。「大丈夫ですか?」弘次は答えず、ただ指先の火を見つめたまま言った。「友作は......とりあえず閉じ込めておけ。弥生を連れ戻すまでは、飯だけ与えろ」「かしこまりました」「弥生は二人の子供を連れている。遠くへは行けない。周辺の農場と市街地の宿を中心に探せ」「承知しました、すぐに手配します!」日はすっかり暮れ、弥生は二人の子供を連れて、ようやく見つけた安宿に腰を落ち着けていた。そこは古くて空気も悪く、どこかカビ臭さが漂っている。窓を開けて外を確認すると、裏手には汚水溝が見えた。すぐに窓を閉め、鍵をかけ、カーテンを引ききった。振り返ると、陽平とひなのがソファにちょこんと座り、少し不安そうにこちらを見ていた。弥生は二人の頭を撫でて微笑んだ。「ごめんね、しばらくの間だけ我慢して」友作が渡してくれた現金は多くはない。いつ戻れるかもわからない中で、無駄遣いはできなかっ
車内に自分しかいないので、友作の運転する速度も次第に落ち着いていた。自分にできるのはここまでだ。この先、自分に何が待っているか、もう知る由もない。後悔しているかと問われても、もはや意味はなかった。一度決めたことに、後悔など関係ないのだ。友作の車が追いつかれたのは、それから一時間ほど経ってからだった。連れ戻された友作は、弘次の前に引き立てられた。その顔にはすでに生気がなく、まるで自分の末路を最初から悟っていたかのように、命乞いをする素振りもなかった。「どこにいる?」弘次の声は、相変わらず穏やかで低かった。だが友作にはわかっていた。これは嵐の前の静けさだ。友作はわずかに唇を歪め、弘次と真正面から目を合わせた。「どこに行ったかは知りません。途中で別れましたから」その言葉に、弘次の目尻の血管がぴくりと跳ねた。「......なぜ?」友作は口を引き結び、小さく息を吐いた。「理由なんてありません。やりたかったから、やっただけです」「僕が罰をしたからか?」弘次は眼鏡を指先で押し上げながら、静かに尋ねた。「それで仕返しに彼女たちを逃がした?」「違います」友作は首を振り、真剣な目で弘次を見つめた。「黒田さんには世話になっております。罰を受けても、仕返しなど考えておりません」「まだ取り返しがつくうちに、どうか手を引いてください」弘次の目は細められ、穏やかな表情からは完全に笑みが消えていた。「......手を引く?」友作は言葉を続けた。「弥生さんが前に手にした電話カード、なぜすぐに警察に通報しなかったかご存知ですか?」弘次の唇はきつく結ばれ、答えは返ってこなかった。友作は淡々と言葉を繋いた。「もしあのとき弥生さんがすぐに通報していたら、今ごろどうなっていたか、弥生さんはまだ黒田さんに最後の望みを残していたんです。彼女は......あなたを傷つけたくなかった」「だから、今ならまだ遅くありません。戻ってください。そうすれば......弥生さんとあなたは、また友人として......」「......友人?」その言葉を繰り返した弘次は、最初は鼻で笑っただけだった。だが笑いは次第に大きくなり、ついには声を上げて嘲笑するかのように笑い続けた。友作はその笑いを静かに見